100回目のブログ

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察するコミュニケーションの難易度が高かった話

察するのって難しい。日々のコミュニケーションに悩んでいる者です。

  • そのくらい察してよ
  • 察してください
  • 言わせないでよ

あー察するのって大変、難しい。相手の気持ちになって考えつつも何してほしいのかがわかりません、想像できません、やって欲しい事があるなら言えばいいのに、、とずっと思ってました。

察するというのは目的達成のためには非常に不明確なんじゃないかな。やって欲しいこと言ってくれた方が正確にできるのに。察してやった結果満足いかないと文句言うってほんと最悪ですわ。他人の気持ちなんかわからないっすよ、、とずっと思っていました。

最近いろいろ話した結果、「察して」という裏側にある文脈が自分が想像していた内容とちょっと違うことが判明しました。なんということでしょう。今まで私は、察した「結果」を求められていると思っていたのですが、それは誤りで、察する「課程」を求められているっぽいです。

なので「察してよ(言われなくてもやってよ)」ではなく、「察してよ(私のことをもっとよく考えてよ、そしてやってよ)」ということみたいです。相手のことを考える時間を作ること、そこが満足ポイントみたいです。なるほど。良いか悪いかは別として、自分が思ってもなかったことが求められてたのだなあと勉強になりました。察してという言葉、それ自体があやふやなものですが、意味の捉え方もそもそもあやふやという、あやふやとあやふやがかけ合わさってカオスな言葉になってるなと。

「今日何たべたい?」「なんでもいいよ」とか「どこ行きたい?」「どこでもいいよ」も同じ問題を孕んでいる気がします。「本当になんでもいいからなんでもいい」という事ではないのです、聞いてる方はそんな話しはしてないのです。

言葉になった結果意図が伝わりづらくなるものって結構あると思います。必ずしも言葉通りにやることが正しいわけでなく、全てが言葉になるわけでもないということです。目的が全て説明されるわけではない。

全て言葉になって欲しいなあ、という気持ちはないです。語られない部分があってもいいと思います。語られないからこそ円滑になるという事もあると思います。ただ、そこが腹落ちしてるかしてないかは結構大事なんじゃないのかなあ。

 

こういうの小さい頃に教えてほしかったなあ(ほんとうはどっちでもいい)